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ヨーロッパの地図とコーヒーの歴史

コーヒーの歴史。コーヒー文化がヨーロッパに根づくまで

スターバックスが毎日皆さまにお届けしているコーヒーは、どのように世界中で愛される飲み物になったのでしょうか。起源から、世界中にそのおいしさと魅力が広がるまで、そこにはいくつもの物語があります。多くの人の手に渡り、様々な方法で飲まれてきたコーヒーの歴史を一緒にたどってみましょう。

コーヒーのはじまりは、元気いっぱいのヤギ

元気いっぱいのヤギたちのイラスト

西暦8 0 0~9 0 0年頃のエチオピアに、ヤギ飼いのカルディという少年がいました。いつものようにヤギの群れを連れていると、ヤギたちは茂みに入って赤い小さな実をかじり、元気いっぱいに踊りはじめました。

次の日も同じことが起こりました。好奇心をそそられたカルディは、キラキラと光る深緑色の葉を噛んだ後、ほんのり甘い実とその中の種を食べてみました。みるみる元気が湧いてきたカルディは、思わずヤギたちと一緒に踊りはじめました。

その様子を眺めていた僧侶はカルディから赤い実の話を聞き、実をいくつか摘んで修道院に持ち帰りました。そして、その実を砕いて粉末にし、熱い湯に溶いて飲んでみたところ、長い夜のお祈りの間いつもより元気なことに気がつきました。そこで、他の僧侶にもこれを飲ませました。僧侶たちは、エネルギーを生み出し、集中力を高めるこの実を「神の贈り物」と称えました。

コーヒーの起源を伝えるものとしてよく知られるストーリーですが、どのような起源があったかに関わらず、コーヒーの木はエチオピアの文化に欠かせないものとなりました。

コンスタンチノープルのコーヒー愛飲者たち

カップに注がれる泡が沢山ある当時のコンスタンチノープルのコーヒーのイラスト

エチオピアからアラビア半島の南端にあるイエメンとの交易によって、コーヒーも広がっていきました。イエメンでは、コーヒー豆が焙煎された状態で煮出され、「カフワ」(“眠りを防ぐもの”という意味)と呼ばれる飲み物が作られました。アラビア商人たちは、紅海の対岸からコーヒーの木を持ち込み、イエメンの土壌に植えて、肥沃な高所で木を育てました。

1536年、コーヒー豆はオスマン帝国(現在のトルコ)の重要な輸出品となり、トルコ人たちはコーヒーの栽培を独占したがるようになりました。他の国々がコーヒーの木を栽培できないようにしようと、結実能力のあるコーヒー豆の持ち出しを禁止。アラビア半島外での発芽を防ぐため、コーヒー豆は沸騰したお湯に漬けるか、焙煎した状態にするか、どちらかにして持ち運ばせるようにしました。

イエメンの紅海沿岸にある港町モカは、18世紀までアラビカ種のコーヒーの主要な市場拠点。有名な品種の一つ、モカの名称はこの港に由来しています。スターバックスで過去に販売していたコーヒー「アラビアン モカ サナニ」は、コーヒーが海を渡る際の出発地となったこの港にちなんで、この名がつけられています。

1555年、オスマン帝国のイエメン総督が、コーヒー豆をコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)に紹介しました。当時、オスマン帝国のトプカプ宮殿では、コーヒー豆を焙煎し、細かく挽いた後にお湯の中でゆっくり加熱するいれ方が生まれました。魅惑的な風味と抽出中の香りから、コーヒーは庶民へと広がっていきました。

世界最初のコーヒーハウスは、この時代にコンスタンチノープルで誕生。客はコーヒーを飲むだけでなく、社交、音楽や芸、チェス、時事情報についての会話を交わしたりしました。記録に残る世界最初のコーヒーハウスである「カフェ カーネス」は都市文化に欠かせないものとなりました。

トルコの法律では、夫が妻に十分なコーヒーを与えることができなければ、妻は離婚を求められると定められていました。これほどまでに、コーヒーはトルコで重要な飲み物だったのです。

コーヒーハウス文化のヨーロッパへの到来

ヨーロッパのコーヒーハウスをイメージしたイラスト

コーヒーの需要が拡大するにつれ、アラビア半島の外でコーヒーを栽培するための熾烈な競争が起こりました。17世紀には、ババ・ブーダンという名のムスリム巡礼者が、コーヒーの種を7粒、革ひもで腰の周りに巻いてイエメンから密輸したと言われています(諸説あり)。

結実能力のあるコーヒー豆はインド洋のセイロン(現在のスリランカ)に運ばれ、栽培されはじめました。そこからジャワ島およびスマトラ、セレベス(現在のスラウェシ)、ティモール、バリ、その他の東インド諸島のオランダの植民地にも移植されました。

1600年代初頭までにコーヒーがヨーロッパに伝わると、ヨーロッパのコーヒーハウス文化が誕生します。

ロンドン初のコーヒーハウスがオープンした際に印刷されたチラシとコーヒーカップ、ポットのイラスト

イタリア

コンスタンチノープルに商用で訪れていたベネチア商人たちがコーヒーを発見し、イタリアに持ち帰りました。1645年にベネチアに最初のコーヒーハウスが開店すると、くつろいだり、人との親交や会話、おいしい食べ物、そこで提供されていた飲み物「カッフェ」を楽しんだりできる場所としてすぐに有名になりました。

イギリス

1650年にオックスフォード大学にコーヒーが持ち込まれ、その2年後にロンドンで最初のコーヒーハウスが開店。最初に登場した数々のコーヒーハウスは、1ペニーで一杯のコーヒーだけでなく、新聞が読め、作家、芸術家、弁護士、政治家、哲学者と議論ができる「ペニー大学」として親しまれました。

フランス

1669年、在パリ・トルコ大使がルイ14世の王宮にコーヒーを紹介し、貴族たちの注目を集めます。1686年には、今も営業を続ける伝説的なカフェ プロコップがパリで開店しました。
この時期、フランス人はコーヒーのいれ方にイノベーションを起こしました。コーヒーを煮出す代わりに、細かく挽いたコーヒーをスプーンで布袋に入れて熱湯に浸す浸漬式を使用したのです。好みの濃さまで抽出したら袋を取り出して、ろ過することで、コーヒーはこれまでよりクリアになりました。
また、コーヒーを楽しむ新しい方法として、ミルクを入れた「カフェ オレ」も開発されました。

オーストリア

1683年、ウィーンに最初のコーヒーハウス「ブルーボトル」を開店。ウィーン人の味覚に合わせて改良した、抽出後のコーヒーの粉を茶こしでこし、クリームとハチミツを加えたコーヒーが大人気となりました。

ドイツ

1670年代にコーヒーが到達し、その後の数十年間で各都市にコーヒーハウスが誕生しました。ベルリンでは1721年に最初のコーヒーハウスがオープンしました。

スペイン

トルコ移民からコーヒーを手に入れ、油分で表面が光るほど深く煎ったコーヒー豆で、力強い風味のコーヒーを作る独自の焙煎スタイルが発展。スペインのコーヒー商人は、アラビア半島からの高品質なコーヒーを好み、アラビア人貿易業者から、ヨーロッパ最高額ともいえる非常に高い値段でコーヒーを買い続けました。

ヨーロッパからアメリカに渡るコーヒー

アムステルダム市長からフランス国王ルイ14世に献上されたコーヒーの木と紅海を渡って旅立つ船のイラスト

国王への贈り物

18世紀初頭までに、オランダ人はセイロン(スリランカ)および東インド諸島の植民地で大量のコーヒーを栽培できるようになりました。そんな中、一本のコーヒーの木がジャワからアムステルダムに持ち込まれ、植物園で丁寧に育てられました。1714年、アムステルダム市長は、ルイ14世にその木の一本を献上。コーヒー愛好家であったルイ14世は、この“高貴な木”をパリの王立植物園に植えました。

コーヒーにまつわる物語①

フランス海軍将校ガブリエル・ド・クリューが高貴な木の若枝を盗み、こっそりと西インド諸島のフランス植民地マルティニーク島行きの船に乗せました。コーヒーの栽培に非常に適していたマルティニーク島で、その若枝は根づいて成長しました。そしてコーヒーは、マルティニーク島からジャマイカ、キューバ、ついには中央アメリカにまで広がったのです。

コーヒーにまつわる物語②

フランス人は自分たちのコーヒー生産を慎重に守っていました。ところが、南米のコーヒー生産地域ギアナに派遣された、ポルトガル陸軍将校パリエッタが、フランス領ギアナ総督夫人を誘惑したことが、コーヒーの歴史に思わぬ影響を与えます。別れ際に夫人は特別な愛情の証として、結実能力のあるコーヒーの種を隠した花束をパリエッタに渡したのです。パリエッタが、駐在地ブラジルに持ち帰ったこの種が、世界最大量のコーヒー生産国のコーヒーのはじまりとなりました。

18世紀から19世紀にかけて、宣教師、旅人、商人、入植者は新しい土地へとコーヒーの種を運び続けました。そのおかげで、世界中でコーヒーが栽培されるようになりました。では、世界最大のコーヒー消費国アメリカでは、どのようにおいしいコーヒーが広まっていったのでしょうか。

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